【アメリカ横断ランニングの旅、ゴールから9年】
9年前の2011年5月25日、ロスアンジェルス、ロングビーチ、アラミトスベイをスタートした「PEACE RUN2011アメリカ横断5,000キロランニングの旅」、8月に一時帰国し、9月19日に第2ステージで再スタート。LAをスタートして138日目、15州を通過、5285キロを走り、アメリカ東部標準時11月24日(サンクスギヴィング・デイ)、ニューヨーク・シティのバッテリー・パークで無事ゴール。大西洋に浮かぶ、自由の女神像が立つリバティ・アイランドを見渡しながら、僕は自分自身が駆け抜けてきた道のりを感慨深く思い返していた。ロスアンゼルスをスタートした日に…山を越えたらそこは砂漠だった…
Route66 を走ってハヴェ砂漠を越える砂漠あり、大平原あり、ロッキー&アパラチア山脈越えあり…。
ユタ州モニュメントバレー、フォレスト・ガンプ・ポイント
ロッキー山脈越え…ウルフクリーク(標高3700メートル)を目指す…気温もマイナス4度から47度まで…。犬に吠えられ追いかけられ、ヘルペスを患い、足首を故障し、高速道路にも侵入…。それでも、人の温かさに触れ、大自然の美しさに心打たれ、アメリカの歴史や文化から多くのことを教えられた。大陸を走ることの素晴らしさと壮絶さを同時に思い知らされた旅…。これが、「PEACE RUN世界五大陸4万キロランニングの旅」第一章、五大陸のうちひとつ目の大陸となった。アメリカ大陸人力での横断はこれが実質3度目。1991年北米大陸自転車横断旅行(LA-シアトル-NYC:青のライン)1994年北米大陸自転車横断旅行PART2(アンカレジ~北極圏横断~カナダケベックシティ:赤のライン)2011年PEACE RUNアメリカ横断ランニングの旅(LA-NYC:緑のライン)
2013年のオーストラリア横断で5200キロ、翌2014年にはニュージーランド縦断2800キロを走って2大陸目を終え、2016年、ヨーロッパランニングの旅で3358キロを走り、現在3つの大陸(北米・欧州・豪州)で1万6637キロを走破。残り3つの大陸(ユーラシア、アフリカ、南米)で2万3363キロ。2万3363キロはフルマラソンを554回走る距離に匹敵する。毎日フルマラソンを走ったとしても約1年半かかる。ひとたび走りだせば、ゴールにたどり着くまでは何が何でも走り切る。PEACE RUNのテーマソング"Go The DIstance"は「最後まで走り切ろう」という思いでつけられたタイトル。一歩ずつゆっくりと一歩ずつ…前に向かって…。僕の旅はなおも続いている…。アメリカ横断ファイナルラン:ニュージャージー州フォートリー〜バッテリー・パーク*旅の詳細はこちら…
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- 2020/11/24(火) 18:02:39|
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【アパラチアン・ラプソディ】

聞こえてくるのは風と戯れる枯葉の音。
まるで生き物みたいにカラカラと乾いた音を立ててハイウェイを転がっていく。
時に3~4枚が群がって競争している。
またある時には、自分と同じペースで転がって併走してくれたりもする。
木という自身の故郷を離れて、枯葉も戻ることのない旅に出て行くのだろう。
9年前の今頃は、アメリカ横断ランニングの旅に出向いていた。
ロッキー山脈よりもタフでハードなアパラチア山脈越えの真っ只中だった。
砂漠、平原、山脈…旅のいろんな楽しめる(苦しめる)要素を盛り込んだ、最高レベルの大人の遠足(笑)。
時に単調さに気が狂いそうになりながら、暑さと渇きでミイラになってしまうのではないかと思わされながら、何とか旅のゴールが見え始めていた頃。
ロスアンゼルスから5000キロを突破して、ゴールのニューヨークまであと300キロ。
1週間を残すばかりとなっていた。
10月末にハロウィーン寒波に見舞われ、アメリカ東部では積雪も観測されたが、僕はその頃、オハイオ州で冷たい雨に打たれながら、半ば低体温症気味で走っていた。
走っている内は体も温まっていいのだが、いったん休憩しようと立ち止まったら震えが止まらない。
気温は2〜4度程度だったか、トイレに入ってファスナーを下ろすためにジッパーを摘もうとする指が悴んで動かない。
鏡に顔を写したら唇が紫色になっていた。
温かいコーヒーが飲みたい…おでんとかすき焼きとか温かい食べ物が食べたい…
そんなことを考えながら走っていたのだった。
それにしてもアパラチア山脈は過酷だった。
ロッキー越えは勾配7パーセントほどのダラダラ登りが延々と続くだけでさして辛いと感じることもなかったけれど、アパラチア山脈は全く違う。
勾配10パーセントを超える登りもしばしばあったし、何より毎日標高700〜800メートル程度の峠を1日4〜5つ上り下りするのだ。
登りはもちろんバギーを押し歩き、下りもバギーが暴走しないように腕と手で支えながらスピードを牽制しつつ走らないといけない。
スピードを出して走ると路面につまづいて足首を捻挫したりしては元も子もないのだ。
時折雪がちらついたり、朝方霜が降りたり氷が張ったり、季節は確実に冬へと移り変わり行く中、僕は大陸を西から東へ、ひたすら前に進んでいくしかなかった。
大西洋が見えるマンハッタン島の東端に立ち、アメリカ大陸ランニング横断という夢を叶える瞬間が必ずやってくる…それだけを信じて…。
感謝感激感動…感性のチカラをフルに使い、身も心も研ぎ澄ませて走り続けた日々はもう過去のもの。
人生のエッセンス…生きることの真髄のみを追求しつつ、無駄なもの・不要なものは一切排除する、まさに断舎離された人生そのものだったのかもしれない。
旅の空の下にあれば、人は誰でも詩人になれるし、アーティストにだってなれるものなのかも知れない。
そのためには、五感をフルに使おう。第六感も鍛え上げよう。
人は感性だけでは生きていけないものなのかもしれないけれど、感性なくしてもまた生きていけないものだと思う。
求められているのは、できるだけ自然に逆らうことなく、自然の中で、自分らしくありのままあるがままの自分で生きていくこと、だと思う。
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- 2020/11/13(金) 09:44:34|
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【平和への巡礼〜その1】
2011年の
アメリカ横断ランニングの旅を振り返りながら、今の世界を見渡してみる。
戦争がなくても(一見戦争は起こっていないように見えても)世界が、社会がおかしなことになってしまうということを今回のコロナ禍で私たちは教えられた。
コロナそのものよりも、その核にあるもの(あえてここではふれないけれど)を変えていかないと、この先、まだまだおかしなことが起こりそうな気もする(だとすればコロナはまだ始まりということか…)。
PEACE RUN2011アメリカ横断ランニングの旅は、元々3.11のあと、東日本大震災復興支援でスタートしたもの。
ランナーが1キロ走って10円を被災地に寄付する
「ランバイテン(RUN×10)運動」が2011年3月14日に提唱された後に僕はアメリカに旅だったのだ。
アメリカ大陸を走っている間も、復興が進んでいく状況をネットの情報でこまめに確認していた。
アメリカで出会った方々の中には、「日本全土が津波に飲まれた」とか「日本全土が地震で崩壊した」とか思っている人もいて驚かされたが、出会ったほとんど誰もが日本のことを心配し、気にかけてくれていた。
今回のコロナは世界のほぼ全ての地域や国に絡んでいる。
日本を出て自由に外国を旅することができるまでにはまだ時間がかかるかもしれないが、それぞれが今できることを地道にやっていくしかない。
ランニング関連のイベントもオンライン以外はほとんど行われていないが、新しい生活様式に則り、少しずつ小規模な大会が開催されている様子。
日々、一本歯下駄で歩いたり走ったりしながら、コロナ収束に関しての祈りを捧げている。
つれあいぴあぴのバンド #
招福ハレルヤ が「サカエアレ」という歌を歌っている。
上の動画ではその曲をバックに流している。
あの時は、東日本大震災復興への祈りを捧げながらほぼ毎日40〜60キロを走っていたのだ。
ロスアンジェルスを出て、ただひたすら東に向かって走り続けたけれど、
走ることしかできない(走ることであらゆることを可能にする)アドヴェンチャー・ランナー高繁勝彦の平和への思いはいつも同じ。
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- 2020/09/13(日) 17:01:53|
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【暑い夏に熱く走る】
暑さで死の危険を最初に感じたのは昨年のカリフォルニア州モハヴィ砂漠。
40度の熱波で吹く熱風はまさにヘアドライヤーから吹き出す風のようだった。
呼吸をするたびに肺が焼け付きそうになり、太陽が眩しすぎて目も眩むほど。かいた汗がその場で蒸発しそうになっていく。
木陰もなく町にたどり着くまでは何もない。時折通過する車を止めて「乗せて行ってください」と頼もうと何度思ったことか…。
幸い熱波の中で倒れることはなかったけれど、その後も数度、地獄の暑さ(熱さ)を経験する場面があった。
アメリカ横断ランニングの旅では、走るルートも気まぐれ。とにかくロス・アンジェルスをスタートしてニューヨーク・マンハッタンにゴールすればそれでよかったのだ。
上の写真のモニュメントバレーに立ち寄ろうと考えたのは、やはり映画の「フォレスト・ガンプ」の影響。
見た人なら知っている。彼もアメリカ大陸を走って何度も横断しているランナー。
そのフォレスト・ガンプ・ポイントがあるのがモニュメントバレー。
雨は依然として降る気配もなく、ただ、真っ青な空と照りつける太陽が燦々と輝いていた。
砂漠の風景は一時間走っても一日走っても一週間走ってもさして変わらないのだが、ここモニュメントバレーは奇岩が立ち並ぶ。
直線道路だと、目印となる岩があれば、その岩の大きさが徐々に大きくなってくることで走っているという感覚が実感できる。
ただ、暑さと乾きがポイント。
持っている水はすぐにお湯になるし、暑さで食欲も減退。
通りすがりの車から先住民のナバホ族の女性が降りてきて、「水はあるの?」とたずねてくる。
「ぬるいのならあります」と答えたら、ジップロックに氷をしこたま入れたのと、ペットボトル入りのミネラルウォーター何本かを手渡してくれた。
「ここは人力で来るようなところじゃないし、ましてやこんな暑い時期に走るなんて自殺行為よね(笑)」
女性は笑っていたが、その意味は僕もよくわかっていた。わかった上でやっているのだからなおたちが悪い。
「とにかく、死なないで。危険を感じたらやめて助けを呼んで」
僕はプリペイドの携帯電話とWi−FIルーターを持っていたが、電波が途切れることが多かったのでしばらく使わずじまいになっていた。FREE Wi-Fiのあるところでないと実際通信できない状態だった。
走ってて確かに危険を感じる…殺人的な暑さ(熱さ)のレベル5中レベル4.5はあっただろうか。
アスファルトが熱で溶けるのは大体45度以上。シューズの裏が黒くなる。
溶けたチョコレートの上を歩いているかのような感覚。
湿度の低い砂漠では、木陰があればまだ涼しい。
だから、僕は持参していたキャンプ用のアルミマットを広げ、一時的に頭の上で屋根を作ってその下で休憩するようにしていた。
濡れタオルを頭に載せたり首に巻いたり、水分が蒸発する時の気化熱のありがたさよ。
砂漠に暮らす人たちは、こんな風に長時間炎天下の中にいることはない。
エアコンの効いた部屋で暮らし、移動する際もエアコンが効いた車で移動する。移動した先のスーパーやコンビニもエアコンで冷えている。
エアコンのないところを移動し続けるのはよほどの変わり者か愚か者のすること(笑)。
マゾヒストはそういう一面も持ち合わせているのだろうけれど、単に僕は学習能力が欠如していただけなのか…?
灼熱の太陽に神からのメッセージを読み取っていたのか…
あるいは、目に見えない宇宙のエナジーが僕にそう働きかけていたのかも知れない。
暑さの中、頭は絶えずボーッとしながら、ただよろめくようにフラフラしながら前へ前へと進んでいく。
生きているという感覚はあった。むしろ生かされている…殺されずに済んでいるという感覚に近いものがあった。
アメリカ大陸というのは基本西半分は砂漠。砂漠があって、人が移り住んできて、家を建て、木を植えて水をやって木を育てて、
畑を作って野菜を作って土が肥えてくるから土地が生き返る。そして、たくさんの人が集まればコミュニティができる。
コミュニティは村や町となり、そこは砂漠ではなくなる…そんな感じでアメリカは栄えてきたのだろう。
旅を終えて、ニューヨークから飛行機(国内線)でロス・アンジェルスに戻る際、アメリカ大陸を空から見下ろしてそんなことを考えていた。
赤茶けた土の色は、水がない証拠。内陸は川や池や湖がないから雨雲もできない。地下水も枯れてしまう。
灼熱の太陽光線を浴びる…
よりによって真っ黒なTシャツ(アシックス提供品)と真っ黒なランニングパンツ、アームカバーとゲーター、革製グラブ(CACAZAN提供品)はできるだけ直射日光を浴びないようにという目的で着用していたがそれらも真っ黒…。
フリルネック(GoField提供品)という砂漠仕様のキャップは首筋や顔にも太陽光線が当たらないようにできるスグレモノ。
この日の動画…フラフラしながら走る足元に注目!(笑)
テーマ:アメリカ縦断/横断の旅 - ジャンル:海外情報
- 2020/07/20(月) 23:39:42|
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【暑い夏に熱くなる】
照りつける日差しに毎日うんざりさせられた…雨はロス・アンジェルスをスタートしてからコロラドに入るまで一滴も降らなかった情熱の温度を1度上げると体感温度は2度下がる。
暑い夏にさらに熱くなることが求められる…(アドヴェンチャー・ランナー 高繁勝彦・談)
*****
9年前の今頃、45度を超える熱波の中、アメリカ横断ランニングの旅のさなか、アメリカ中西部を走っていた。
ほとんどが砂漠のような風景。
空気も乾燥しているため日焼けはもちろん唇がかさかさになって割れる。
町から町の間隔も60キロ、70キロ離れているので水や食料の補給にも気を遣う。
強烈な日ざし…サンローションを塗っても長時間野ざらしでいれば、恐らく効果はないであろう。
むしろできるだけ肌を露出させない方がいい。
地球とは思えない…火星を走っているかのような感覚…暑さの中では暑さ以外に感じられることも限られてくる。
「冷たいものがほしい」「何か飲みたい」「木陰はないか?」
究極の状態が近づけば、人はやはり本能の赴くままに生きるものなのだろう。
それは僕が俗人以外の何物でもないということの証(あかし)でもある。
あの頃の記憶は既に遠くなりつつある。
だけど、全身で感じた焼けつくような暑さは忘れてはいない。
鉄板の上で焼かれるお好み焼きはこんな感じで熱されるのだということを実感する。
ハイウェイのアスファルトは熱で柔らかくなっていた。
国内の旅でも、あまりの日差しの強烈さにミミズが焦げた焼きそばのようにカリカリになっているのを何度も見た。
その場に倒れて野垂れ死にしたらこうなるのだということを命を懸けて示してくれているのだと思った。
シューズを履いている足は、アウトソールを通じてアスファルトの熱を感じ取り、立っているだけで全身は否応なしに熱を吸収していく。
いくら水分を摂っても汗すらかいたその場で蒸発する。
ここではあらゆる水分が熱によって蒸発させられてしまう。
僕の体の中のあらゆる水分が奪われるのにおそらく2〜3時間あれば十分だろう。
たとえゆっくりでも走ることで体温が上昇する。体だけでなく頭も熱くなる。
暑さを感じる脳の中枢がこのままではぶっ壊れかねない。
だから、僕は頭と体が動く内に走り続けた。
次の街に着くまで、エアコンが効いた部屋にチェックインするまでは走らなければいけない。
辛くても苦しくても、それはやがて快感に変わる。
体に刻まれた痛みや苦しみや辛さは、トラウマにもなるものだけど、自分がその時その場所で生きていたことの証(あかし)になっている。
ユタ州あたりの砂漠…真っ青な空の下日陰となる場所は自分の足下かバギーの下くらいのもの…頭も体も空っぽにして、自分の心と体が向きあう時間。
ランナーとして走ることでそんな場面を経験すれば、走る世界も変わってくる。
走ることは競うことでも闘うことでもない…
レースとか大会では経験できない感動もある。そうなるともっとクリエイティヴな世界が広がってくる。
アドヴェンチャー・ランニングの醍醐味がここにある。
既成の枠や概念にとらわれることなく、常識にこだわることもなく、もっと自由な走りを楽しめる…
そんなランニングの世界を今も探し求めている。
これから暑い夏がやって来るけれど、さらに熱く走りたい。
熱中症や脱水症状には十分気をつけて、今日も明日も素晴らしい走りを…GOOD楽駆!!
アメリカ中西部の熱波の中を走る…バギーのそばでポータブルチェアに腰掛け給水する之図
テーマ:アメリカ縦断/横断の旅 - ジャンル:海外情報
- 2020/07/16(木) 23:01:25|
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