【嗚呼、外大~その2】
母校関西外国語大学の同窓会総会・ホームカミングデーに参加してきた。
折りしも大学キャンパスは学園祭のさなか、素顔の大学を見ることができるチャンスでもあった。

昨日もふれたが、今は学生も大学そのものもお洒落な時代。
30年前からは想像もつかないような施設やシステムが学園内の至る所に存在している。
通常、大学へは京阪電車枚方市駅からバスを利用するのだが、今回は別ルートで。
ホーム自体がカーブしていて、電車の車両とホームの間にいつも隙間ができる京阪電車御殿山駅から歩いていくことにした。
距離的には1キロちょっと。
かつて栄えた片鉾キャンパスは消えて、10年前中宮キャンパスが小松製作所の隣につくられた。
広い…大きい…。
敷地は約20万平方メートル。
昔のキャンパスは小さく、毎日同じ時間に同じ場所で必ず顔を合わせる人間が少なからずいたり…。

マクドナルドがあり、シアトルズベストコーヒーがあり、丸善やコンビニもある。

驚くなかれ、ホテルのフロントや飛行機のエグゼクティブクラスを再現した教室もあるのだ。
昔は学食が学部と短大にひとつずつ。あとは喫茶室がひとつ。
クラブハウスにカップヌードルやドリンクの自販機があるくらいのものだった。
それでも30年前はそれなりにお洒落だった(と信じ込んでいた)。
キャンパスにハワイと呼ばれるスポットがあって、学生たちの憩いの場になっていた。
ホットパンツ(死語?)を履いた女の子がローラースケートで走ってきて、留学生たちの所にやってきて、みんながスマイルを浮かべながら楽しい時間を過ごしているという…何かドラマのような世界が目の前で実際に繰り広げられていた。
噴水を擁した池があって、創始者の銅像がその中央に…通称「学長の湖」と呼ばれていた。
当初、コンパのあと誰かが水の中に投げ込まれる(冬場でも)というので水が入っていないことも多かった(様な気がする)。
30年、信じられないような歳月が流れていた。
学園祭では模擬店でも酒が振舞われていたが今は酔ってへべれけになって歩いている学生は一人もいない。
当時は模擬店やイベントの立て看板があちこちにあったはずだけど、今はあってもほとんど気がつかない。
学ランを着て歩く学生も、先輩に「オス(押忍)!」とあいさつする学生も見られなかった。
当然といえば当然なのだろうけど、いつそんな風習が消えてなくなったのだろう…?
大学のパンフレットもお洒落になって、今の受験生たちのニーズに少しでも合わせようといろんな工夫が見られる。
当時「下宿」と言っていたはずの言葉も既に死語と化した。
今は「学生マンション」と呼ぶのだそうだ。
今の学生に自分たちの時代の下宿の話をしたとしても恐らく信じてもらえないであろう。
僕が住んでいたのは最初4畳半一間。同じアパート内には3畳の部屋がまだ残っていた。
のちに3畳の部屋の壁をぶち抜いて6畳一間になったところに移動した。
常にいろんな虫がいて、ゴキブリは友達みたいなものだった。
朝ゴキブリホイホイをせっとしたら夕方にはもう満タンになるくらい…。
寝ている間にゴキブリに耳を噛まれたことがあった。
ゴキブリが夜こおろぎのように鳴いているのを聞いたこともあった。
一度、天井から降ってきたムカデに首を刺されたことも懐かしい。
大量のアリが部屋に侵略してきて戦争状態になったこともあった。
トイレは共同、風呂はなし。銭湯に行くしかない。たまに一階にある給湯器のお湯を洗濯機にためてお風呂代わりにしていた(笑)。
キッチンに流しはあったが、ガスはカセットコンロ。
電子レンジなんてものはなかったし、冷蔵庫はあったが氷を作れるような立派なものじゃなかった。冷蔵庫の中は水とマヨネーズがいつもあった。
暖房は電気コタツのみ。
冬はコタツで寝たし、時々コタツの本体を立てて、コタツの足にかけたロープに洗濯物を干していた。
とにかくそんなところで学生時代を送っていたのだ。
今の学生たちにそんな経験をしろとは言わないが、携帯電話やPCが使える今という時代に生きている若者たちが本当にうらやましいと思う。
話は戻るが、同窓会総会…。
午前9時過ぎに会場着。開会は10時半。
まだほとんど誰も来ていない。
30分経った頃からぽつぽつと人が増え始める。
それもかなりお年を召された方々…。
1945年に外大の前身である外語学校が創立しているし、大学開学は1966年だから1期生はもう60歳を過ぎているのだ。
それでも今回の同窓会総会が第4回。
今まで存在していた同窓会だが本格的に活動を始めてまだ4年。

10時半、吹奏楽部のファンファーレがあり、続いて合唱団が現れ、学園歌の斉唱。30年ぶりに耳にしたけど結構歌詞も覚えていた。

300名くらいが集まったろうか。
聞くところでは、開学以来15万人の卒業生がいるのだとか。

第一部は理事長と会長のあいさつ、議事があって、第二部は卒業生で史上初の黒人演歌歌手ジェロのトーク&歌謡ショー。
(写真撮影、録画、録音禁止ということで写真はありません)

続いては懇親会。
安部さんとその後輩お二人と落ち合って食堂へ。
今日だけ特別にアルコールが…。ただし会場外には持ち出せない。
1階に空いたテーブルがなく2階へ。ただ、2階も満席。しかたなく立食。
ふと見覚えのあるお顔…懐かしい先輩が目の前に現れ思わず「K先輩!」と大声を出してしまった。
K先輩は自分を探しに来てくれたのだ。
今年の夏の「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」の様子もブログで見ていてくれたのか、ご自宅近くを自分が通過する際応援に出向こうかとも考えられていたのだと。
K先輩に誘われて他の仲間が集まる1階へ。
懐かしいN(元)学生課長!一期上のK文化会会長、同期のS文化会会長、二期下のO体育会会長はじめ懐かしい面々。
同じ酒道場でバイトしてたAくんもそこにはいた。
皆それぞれに社会の第一線で活躍している。
再会を懐かしみつつ、いろいろ話をしている内に、既に他界してしまった恩師や仲間の名前が…一人…また一人…。
30年も経てば仕方のない話だが、何よりもショックだったのは酒道場のオヤジさんが病死されたという知らせ。
やはり…。
父親のようにいろいろと気遣ってもらったあのオヤジさんに最後に会ったのは2年前。
足が不自由になってフライパンを握るのも大変そうだったが、あれが最後になるなんて…。
思い出話は尽きることがない。
一つの話題が次の話題につながり、誰かが覚えていないことを別の誰かが覚えていたり…。
そうやって忘れ去られていたできごとも、より明確ではっきりとしたイメージとしてそれぞれの頭に蘇ってくる。
「あ~そうだったんだ~!」
笑いと歓声が起こる瞬間…。
だが、歳月の流れは時として残酷すぎるほどの仕打ちを人に与えるもの。
相当苦労があったのか、総白髪や禿頭になって実年齢よりも10歳も老けて見えるものもいれば、病気を患って生死の境をさまよっていたという経験をしたものもいる。
そこに集まったメンバーに同じようにして流れていた時間のはずだが、それぞれの価値はそれぞれで違っているということ。
同じ時代を生きているにもかかわらず、交わることのないまま何十年も過ごしてきて、ある日再会できたのはある意味幸運と言える。
生きている者だけが今という時間を楽しむことができる…当たり前のことなのだけれど、あらためて今生きていることをありがたく思わされた。
午後4時を回ってICC(インターナショナルコミュニケーションセンター)でGaiDiversityというイベントへ。

卒業生の有志たちが今年初めて企画したイベントだ。
センター内にある「アマーク ド バラディ」というお洒落なレストランが会場。
集まっていたのは8~9割は女性だったか、20~30代の卒業生の中に50代の自分がいるので、最初ちょっと違和感を感じたが、それもすぐ消えて、娘や息子のような若者たちと楽しい時間を過ごした。
各テーブルごとにグループが作られグループ対抗クイズ大会があった。
若者には分からないような昔の事件やニュースに関する質問や、イントロを聞いて昔のヒットソングのタイトルを当てるのだが、たまたまこれが自分のよく知っているものばかり。
最終2位になってあれこれ賞品をもらってグループ内で分配。
グループの20代の女の子たちが喜んでくれた。
午後7時にお開き。
この日交換した名刺が20枚ばかり。
名刺のない方々を含めれば40~50名くらいの人たちと交流できただろうか。
PEACE RUN告知のためにこういった機会もきちんと活用する。
これは営業の鉄則だ。
出会うことでみんながつながる、みんなとつながる。
今はたいていの人がfacebookやツイッターをやっていて、これもまたネットワーク拡大に大いにプラスになっていくもの。
今後またいろんなところでつながっていってくれることを期待したい。
ずっと自分の中にあって、しばらくふれられることもなかったとても大切なものを、今日久々に見ることができた…そんなことを感じた一日。
感謝感激感動は常に求め続けるべきもの…なのだ。
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- 2012/11/04(日) 10:47:55|
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