【アドヴェンチャー・ランナーは荒野を駆ける~その10】
ウォルセンバーグ~ラフンタ 米・コロラド州 2011年7月
「PEACE RUN2011アメリカ横断ランニングの旅」も50日目を超えたが、まだまだゴールのニューヨークは遠い。
砂漠の旅も一段落、アップトップを最後に、コロラド、ロッキー山脈の山越えは終わり、ここからは大平原の風景へと変わっていく。

どこまでもフラット…とは言え小刻みに続くローリングヒルと呼ばれるアップダウンもある。
ウォルセンバーグからラフンタまでの72マイル(約116キロ)はコロラド州道10号線の旅。この間、地図で確認したところ町も店もない。

今回の旅では一番へき地となるポイント…。
これまでも60キロ程度の空白の区間は何度かあったが、たいていの場合、無理してでも一日で走り切った。
町のあるところにテントでもモーテルでも宿泊できるのはいくぶん安心できる。
それでも120キロとなれば一日で走るのはできないわけではないが、旅はこの先まだ続くわけで、「あせらずあわてずあきらめず」の精神で行くのなら二日に分けて走るのが妥当であろう。
日ざしのせいで暑くなってきたが、風があっていくぶん涼しい。
コロラドのウルフクリークは標高約3300メートルだった。
ここから東に向かうに連れて標高もどんどん下がっていく。
アップトップで出会ったあるツーリストは車で一日でカンザス州から標高2500mを上がってきたというが、カンザスで30度近くまであったのが、一気に気温が10度台に下がってびっくりしたと言っていた。
湿度もミズーリ川やミシシッピがあるために東の方が高いとの情報。
大陸なので気候も様々だが、わずか数百キロ離れていても高度でずいぶん差があるものだ。
休憩も食事も大平原のどこでもない所の真ん中でとる。
折りたたみの小さな椅子を広げ、バギーMUSASHI号を背もたれにして休憩するのだ。
360度地平線を眺めながらランチブレイク。
路肩がほとんどないので牧草地帯の一角で休むことが多い。
時々牛や馬が近くにいると風向き次第で悪臭が漂ってくる。

午後になって、ふと目の前に白い車が止まった。
間寛平さんのアースマラソンでは世界各地で11回に渡り応援サポートに現れた、あのアメマのおっさんことリックだった!
奥様も一緒に来られていた。
バニラシェイクや麦茶、カップ麺や味噌汁、柿の種などの日本食、ビールの差し入れを頂いた。
スタートしてからずっと同じ風景の中で鹿と牛と馬しか会ってなかったので、うれしいサプライズ!
アースマラソンサポーターズクラブのリーダー龍平さんが現在PEACE RUNサポーターズクラブを立ち上げ、アースマラソンを応援していた仲間がPEACE RUNのサポーターになってくれている。

リックもその一人であった。
「次の週も応援に来るよ。今度は一緒に伴走するから…。新しい義足ができるんだ」どうやら彼は新しい義足を作ってもらうためにコロラドから東に向かっているようだった。
マラソンも寛平さんの影響で始めたし、今はトライアスロンにも取り組んでいる。
ランニング用と自転車用で違う義足が必要になるらしい。
最先端のテクノロジーで作られた、パラリンピックの選手が使うようなランナー向けの義足は、さすがに高価ではあるけれど走り心地も抜群なのだそうだ。

その後、トロントから西海岸を目指して走っているライダー、ダンと出会う。

自転車でアメリカ大陸を走りたかったが、体が重すぎて膝がよくないのだとか。
僕自身の食生活についてあれこれ聞かれたが、彼はハンバーガーとピザとフライドチキンが大好きでほぼ毎日欠かせないのだという。
「大陸を二本脚で移動だなんて信じられない!感動したよ!!」そう言って彼は握手を求めてきた。
昔、大相撲の三重の海と握手をしたことがあったが、野球のグラブみたいに手が大きいのに驚かされた。
彼の手も三重の海に負けないくらいとてつもなく巨大だった。
120キロの巨体を乗せた彼のバイクはあっという間に地平線の彼方へと消えていった。
この日、スタート地点のロスアンジェルス、ロングビーチからの全走行距離が2000キロを突破した。あと3000キロあまり。
午後6時半、コロラド州道10号線37マイル(約60キロ)地点から少し入った平原にキャンプサイトを決定。

テントを張ったが絶えず風が吹き荒れる。
フライシートがバタバタ煽られ、砂埃もすごい。短時間でテントのフロアが砂だらけになった。
テントの中でディナー。
リックからもらったビール(フォートコリンズ)二本を頂く。
苦味が利いて美味しい!
ただ、テント内の温度が41度でサウナ風呂状態。
アルコールが入った体は火照って汗だく…。
インターネットも使えないし日誌を書いて、明日の準備をしたら日没とともに寝る。
夜中の風も嵐のように激しかった。
カリフォルニア州モハヴィ砂漠の砂嵐を思わせるような突風。
大平原は風の通り道。竜巻も来るし、始終風は吹き続ける。
暑さのため、パンツ一枚で濡れタオルを体に当てながら寝ていたが、どうにもならない。
9時前に日が沈んで少しずつ気温は下がっていったが、トイレでテントの外に出てみて気づいたのは、明らかにテントの外の方が涼しいということ。
夜空を見上げる…月と星がとてもきれいだった。
大平原にただ一人…聞こえてくるのは風の歌だけ…。
次の朝、日の出前の5時半スタート。
ハイウェイで日の出を拝む。
大平原のいいところは朝日と夕日が格段美しいということ。
雲が発生しにくいのでいつも晴れ。
夜空に浮かぶ満天の星も綺麗だ。
今日はラフンタの宿まで約60キロ。
標高は1200mまで下がる。当然気温も上がることを覚悟しておかねばならない。
早めの昼食をとったあと、椅子に座ったまま居眠り。
ヘンな夢を見た。
朝、スタートして延々と一日中砂漠の平原を走って、たどり着いたのは朝スタートした場所。
これが延々と繰り返される悪夢…。
その夢を見ている途中で「おーい!」という声が聞こえて目が覚めた。
そこには、自分と同じようにバギーを押して旅をしている若者が立っていた。
寝ぼけていたので、状況がすぐに飲み込めなかった。
目の前にいるのは自分の分身なのか?あるいはまだ夢の中にいるのか…?

ようやく意識がはっきりしてきて、彼も旅人であることが分かったので、お互い自己紹介をした。
彼の名はネイト。メイン州デラウェアから西海岸を目指して歩き旅をしているという。
上半身裸で、頭には星条旗のバンダナを鉢巻にしていた。
1日30~40キロを歩く。
「歩くだけでも大変なのにこんな暑さでしかもこんなルートをよく走れますね」とネイト。
「歩いても走っても大陸横断二本脚の旅は何だかんだで大変なんだよ」と僕。
よもや同じ時期に同じようなスタイルで旅をしている仲間に出くわすとは…。
お互い驚いていた。
お互い同じような苦労をしているし、話している内容も共感できるものばかりだった。
15分くらいあれこれ話をして写真を撮って、お互いの旅の無事を祈って別れた。

通り過ぎる車がクラクションを鳴らしながら応援してくれたり、たまに止まってくれる車が「乗っていくか?」と親切に声をかけてくれる。
「何で走っているんだ?」多くの人たちは僕に走る理由を求めてくる。
「一本の道と二本の脚があるからですよ」という答えでは納得してくれる人はまずいない。
「東日本大震災のチャリティです」と応えれば
「ほぉ~」と言って納得してくれる。
目に見えるイメージできるような答えでなければ普通の人は理解し得ないのだろう。

午後の暑さと、一本道のハイウェイ…全く変わることのない風景が延々とどこまでも、ともすれば地球の果てまでも続くかに見える。
時々、大声を出して叫びたくなるくらい…人が発狂するタイミングというのが何となく分かったような気がした。

特に、ラスト10マイル(約16キロ)が異常に長く感じられた。
ハイウェイにはマイレージ(里程標)が立っていて、ハイウェイの起点からの距離が表示される。


あと6マイル(9.6キロ)辺りで意識が遠のき始める。
暑さと渇きと疲労と…。
休憩…つぶれたマフィンを食べているとのどが詰まる。
ボトルの水はお湯に近い。砂糖入りの紅茶は甘すぎて飲む気がしない。
冷蔵庫がないので冷たいものは何もない。
ぬるくなったフルーツパックが唯一美味しく感じられる。
町に着いたら何を食べようか、何を飲もうか?
とりあえず人間らしい食事にありつけたら幸せだ。
モハヴィ砂漠のアンヴォイでの一日を思い出した。
暑さと渇きでフラフラになりながらそれでも気力を振り絞って前進…。
あと町までどれくらいあるのかも分からない。
通過する車もほとんどないので不安になる。
ここで倒れたとしたら誰か気づいてくれるのだろうか?
最後の坂を登って、それでもまだ町は見えない。
コロラド州道10号線が終わってUS50号線に入っても終わりが見えない。


そして、ようやくガスステーションが見えてきた!
一気にペースを上げダッシュ!
自分にそんな体力が残っていたのが不思議だったが、一目散にコンビニに飛び込んで、マウンテンデューをセルフサーヴで買ってゴクゴクとイッキ飲み!
ああ、エアコンが効いて気持ちいい!
冷たいドリンクが二日ぶりに飲めた幸せ…。
文明に感謝!生きていることに感謝!!
途中にあった銀行の電光掲示板の気温表示は華氏102度。
104度で40度だから実際38度くらいか…。
足元から暑さがじわじわっと全身に伝わってくる。
暑さでダウン寸前…。足元はフラフラ。
集中力がしばしば切れがちになる。
4時過ぎにやっとモーテルへチェックイン。
部屋に入って、すぐさまセイフウェイへ買出しに。
冷房の効いたセイフウェイが楽園に思えた。
シャワーを浴びてディナー。
24オンスのバドワイザー二本でエナジーチャージ。
生き返った心地…。
気温が40度近くになって60キロを走るのは自殺行為に近いということを知る。
暑さと仲良くなるのはなかなか難しいけれど、体も徐々に暑さに馴染んでいくだろう。
西部開拓時代、電気もガスも水道もなかった時代に旅をした人々もきっと同じような(あるいはもっと過酷な)経験をしてきたに違いない。
21世紀を生きる我々からしてみれば、安楽で快適な暮らしを営みたいのはもっともなことかも知れないが、あえてこんな経験をしてみるのも実は必要なことだと思う。
先人の労苦があってこそ近代文明が生まれてきたのだということを忘れてはいけないのだ。

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テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
- 2012/11/09(金) 16:29:43|
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